조선으로부터 내습한 동국군은, 대마도·이키를 덮쳐, 남자는 몰살로 하고, 여자는 손바닥에 구멍을 뚫고 끈을 통해, 뱃전에 죽 늘어서 묶은 것으로 하고 있었습니다.무엇을 위해서 이런 일을 했는가 하면 , 실은 그녀들을 식료로 하려고 해 살리고 동반이라고 왔습니다.다만 도망치지 않게 끈으로 배에 묶고 있었습니다.
한국인은 원래 일본인과 같은 식생활로 고기를 먹지 않았습니다만, 만주에 데리고 가져 말고기등을 먹게 되어, 한층 더 인육도 먹게 되었습니다.박근혜는 「피해자와 가해자의 관계는, 천년 변하지 않다」라고 했습니다만, 우리도 일본인이 한국인에 깔봐졌다고 하는 사실을 잊고는 되지 않습니다.
「고려사」의 「모토무네 13년(1271년)」의 조에, 당시는 아직 상속인이었던 충렬왕이 쿠빌라이에게, 다음과 같은 상주를 했다, 라고 쓰여져 있습니다.「유그일본미몽성화 고 발조사계요군용 전함 자금(쪽)편 거처수당이차사위신면진 정신력소조왕사」
「몽고내습 두루마리그림」을 봐도 알도록(듯이), 하카타에 상륙한 원군에는 기병이 있지 않고, 대부분이 경장 보병이었습니다.말을 배에 싣고 바다를 건너 오는 것이 어려웠기 때문입니다.그것을 맞아 싸우는 일본의 무사는 중장기병입니다.
기병은 스피드가 있다의로, 단시간에 병력을 집중하는 것이 가능합니다.또, 말을 탄 높은 위치로부터 낮은 곳에 있는 보병으로 향해 창이나 칼을 거절해 내릴 수 있습니다.일본의 기병(카마쿠라 무사)은, 원군의 보병에서 물리적으로 우위였습니다.
당시의 조선은 고려였습니다.코마왕인 아이( 후의 충렬왕)는 1272년, 스스로 진행되고, 쿠빌라이·한에 일본을 공격해야 하는 것인 것을 이하와 같이, 상주하고 있습니다.
유그일본미몽성화 고 발조사계적군용 전함 자금(쪽)편 거처수.당이차사위신면진 정신력소조왕사.
朝鮮から襲来した東路軍は、対馬・壱岐を襲い、男は皆殺しにして、女は手のひらに穴を開けてひもを通し、船べりに数珠つなぎにしていました。何のためにこんなことをしたのかというと、実は彼女らを食料にしようとして生かして連れてきたのです。ただし逃げないようにひもで船に結びつけていました。
朝鮮人はもともと日本人と同じような食生活で肉を食べなかったのですが、満州につれて行かれて馬肉などを食べるようになり、さらに人肉をも食べるようになりました。朴槿恵は「被害者と加害者の関係は、千年変わらない」と言いましたが、われわれも日本人が朝鮮人に食われたという事実を忘れてはなりません。
『高麗史』の「元宗十三年(1271年)」の条に、当時はまだ世継ぎだった忠烈王がフビライに、次のような上奏をした、と書かれています。「惟彼日本 未蒙聖化 故発詔 使継耀軍容 戦艦兵糧 方在所須 儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師」
「日本は、未だに皇帝フビライの家来になっていないから、日本に攻め込もうではありませんか。その際には自分が先頭に立って日本に攻め込みます」と提案しているのです。朝鮮王の扇動に乗って、多くの朝鮮人や満州在住の朝鮮人二世が、日本を略奪するという欲望に駆られて日本に攻め込んだのです。
「蒙古襲来絵詞」を見ても分かるように、博多に上陸した元軍には騎兵がおらず、ほとんどが軽装歩兵でした。馬を船に乗せて海を渡ってくるのが難しかったからです。それを迎え撃つ日本の武士は重装騎兵です。
騎兵はスピードがあるので、短時間で兵力を集中することが可能です。また、馬に乗った高い位置から低い所にいる歩兵に向かって槍や刀を振り下ろすことができます。日本の騎兵(鎌倉武士)は、元軍の歩兵より物理的に優位だったのです。
元軍は当初、一日で大宰府を占領するつもりだったのですが、意外に日本軍が強かったので、いったん海岸に引き返しました。そこで作戦会議を開き、「日本軍は意外に手強い」「自分たちには援軍がないが、向こうにはある」ということで、いったん引き揚げることになりました。そして帰る途中で少し強い風が吹いて船が難破した、ということです。今の11月のことだったので、台風ではありませんでした。
当時の朝鮮は高麗でした。高麗王の子(後の忠烈王)は1272年、自ら進んで、フビライ・ハンに日本を攻めるべきであることを以下のように、上奏しています。
惟彼日本 未蒙聖化 故発詔 使継糴軍容 戦艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師。
惟(おも)んみるに彼の日本は、未だ(皇帝フビライの)聖なる感化を蒙(こうむ)らず。故に詔(みことのり)を発して、軍容を整え、継糴(けいてき、糧食を整えること)せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須(みち)いる所あらん。もし此事(このこと)を以て、(皇帝が)臣(忠烈王のこと)に委(ゆだ)ねば、心力を尽し勉(つと)め、王師(皇帝のこと)を小助せん。――『高麗史』の「元宗十三年」の一部